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新日本プロレス見ようぜ!
永田裕志対ミルコ・クロコップ[新日本プロレスの歴史]
2019年3月 K-1やPRIDEで活躍した”ミルコ・クロポップ”が脳卒中により引退した。
新日本プロレスとミルコ・クロコップといえば、2001年の大みそかに行われた
”永田裕志対ミルコ・クロコップ”
永田裕志は2度総合格闘技の舞台に、あがっている。その1度目がこの対ミルコ・クロポップ戦だ。
その後、IWGPヘビーを10度防衛し「ミスターIWGP」と呼ばれ、今もなお第三世代の一角として、若手の壁になり続けている男が、なぜミルコ・クロコップと対戦しなければならなかったのか。
今、その歴史を振り返りたいと思う。
伝説の第一試合
永田裕志を語る上で外せないのが、1995年10.9東京ドーム。
「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」である。
名前の通り、高田延彦率いるUWFインターナショナルとの対抗戦。
後の総合格闘技にも繋がっていくといえる、蹴りを主体とした格闘技プロレスのUWFインターとの試合で永田は注目を浴びる事となる。
「伝説の第一試合」と呼ばれるこの試合
石沢常光(ケンドー・カシンこと石澤常光)&永田裕志 対 金原弘光&桜庭和志
石沢が桜庭から勝利を奪ったこの試合、出場していた4人全員が後に総合格闘技のリングに上がる事になる・・・。
ケンドー・カシンこと石澤は、永田対ミルコより1年半前に、アントニオ猪木の命によりPRIDEに参戦しハイアン・グレイシーに敗北。
その1年後に再戦しKO勝利を収めている。
永田対ミルコの話しがあがった際にも永田に「周りに乗せられて断れないんだろ?」とやめるよう諭し、永田対ミルコの試合後には猪木事務所の倍賞専務(猪木の嫁の弟でもある)に「怪我がなくてよかったじゃないか!」と喰ってかかったというエピソードがある。
永田裕志の決断
かつて、新日本プロレスには”神”がいた。
”アントニオ猪木”である。
猪木の打ち上げた”プロレス最強論”
「プロレスこそが最強である」と当時のファンは信じていた。
猪木の現役引退後も、金銭的な部分も含めて、アントニオ猪木に振り回されていく”新日本プロレス”
この永田裕志も、こうしたアントニオ猪木の巻き起こす激流に巻き込まれたといえるかもしれない。
永田の決断は”猪木からの誘い”に口説き落とされただけではない。
永田がミルコに”興味をもった”のは武藤敬司の存在が大きかったとも言われる。
G1において武藤からタップアウトを取り、優勝した永田であったが、その存在を超える事が出来なかった。
闘魂三銃士。その中でも”天才”と呼ばれた武藤を超える為に・・・という思いが、対ミルコ戦への決断を少なからず後押しした。
一方で、新日本プロレス側には、ここを勝って「格闘技とは関わりを断ちたい」という思いがあったようである。
ミルコ・クロコップの当時の評価
「プロレスが死んだ日」とも言われる高田対ヒクソン・グレイシーから約二年後。
総合格闘技ブーム真っ只中の2001年
「INOKI-BOM-BA-YE 2001」
猪木軍VSK-1軍の対抗戦。
”永田対ミルコ・クロコップ”は行われた。
永田がミルコに勝てるかもしれないなんて、今考えるとありえないと思うかもしれないが、当時”永田なら勝てる”と新日本プロレス側は踏んでいたようである。
K-1グランプリ準優勝など、立ち技、打撃に関しては実績のあったミルコ。
しかし、当時は総合においてそこまで打撃優位ではなく、立ち技しか出来ないキックボクサーは寝かされるとモロイというのが定説であった。
さらに、この時点でのミルコの総合格闘技のキャリアは2試合。
対藤田和之と対高田延彦である。
プロレスハンターと呼ばれる由来
総合デビュー戦の対藤田戦では、ミルコは藤田の速いタックルを2度かわした。
”かわした”といえば聞こえはいいが”タックルをきれない”から逃げ回ったと言えるだろう。
実際、藤田が3度目のタックルに行った時に、そのまま強引にテイクダウンを取られている。
だがその3度目のタックルの瞬間、蹴りを放とうとしていたミルコの膝に藤田の額がバッティングしていた。
藤田が上になった状態でのカットによるTKO。
あのまま続けていたら、藤田が勝ったんじゃないかという評価も多かった。
総合2戦目の対高田戦は、試合中に踵を骨折した高田が終始寝ころぶ格好となった。
”アントニオ猪木対モハメド・アリ状態”と言える形である。
ミルコは苛立ち、だが攻めきれず、時間切れで判定裁定なしという結果だった。
しかし、この試合でミルコは進化の片鱗を見せてはいた。
高田のタックルを何度もきっていたのである。
対永田戦を迎えるまでのミルコの総合での2試合は、総合に適合した試合を展開したとはいえない内容であった。
そのため新日本プロレス側が”勝てる”と踏んだのも妥当と言えるだろう。
当時の世間の評価
では、世間の評価はどうであったか。
プロレスラーの敗戦が続いたことで、一部のプロレスファンを除き
”プロレスラーは弱いんじゃないんか?”
という考えが、浸透しつつあった。
もっというならばプロレスファン以外の世間の声は
”どうせプロレスラーがまた負けるんでしょ”
という声が大半であったようにも思う。
たしかに、K-1から総合に入ってきた選手に比べると”華”という部分でも劣っていただろう。
一発当たればひっくり返るような打撃と、打たれてもがむしゃらにくらいついていく姿。
派手な打撃のほうがウケるのは仕方ないのかもしれない。
永田裕志対ミルコ・クロコップ
いよいよ迎えた対ミルコ戦
永田はシリーズを休む事なく出場しながら、ドン・フライの弟子とのスパーリングや試合に明け暮れ、年内最終戦後には海外に渡りドン・フライと10日間の集中トレーニング。
永田自身”いける”と思ったという。
超満員の「さいたまスーパーアリーナ」で永田はミルコと向かい合った。
開始そうそう、ミルコの右ジャブに合わせて永田が脇を差しにいくも、フットワークでいなされる。
元々永田はレスリングのグレコローマン出身であるため、タックルは狙っていなかった。
・グレコローマンとは?
膝から下を攻撃や防御に用いてはいけないという制約のもと行うレスリング。
男子のレスリングはフリースタイルとグレコローマンがある。
その後、もう一度距離をつめようとする永田を牽制するようなミルコのワン、ツーがヒット。
なかなか距離を詰められない永田に対してミルコは左ストレートのフェイントを入れた。
これに反応し、ミルコの放った右のジャブを永田が抑えに行った瞬間だった。
ミルコの必殺の左ハイキックが側頭部にヒットし、ふっ飛ぶように倒れた永田にミルコがパウンドのラッシュ。
あっという間の出来事だった。
試合時間はわずかに21秒。
皮肉にも、プロレス実況で名を上げたともいえる古館伊知郎が叫んだ
「永田、いいところなし!!!」
という言葉は、そのままこの試合に対する、世間の印象であった。
永田対ミルコ直後の1.4
その後、年が明けての1.4
プロレスラーが総合に挑戦して負けるという事は、当然プロレスファンからも、メディアからも酷評・批判を受けることになる。
永田が戦前に発言した「ナガタロック3が出るかもしれない」というリップサービスはそのまま批判となって返ってくる事になってしまった。
しかしそんな批判渦巻く中、1.4の対戦相手であり、永田のライバルである秋山は、永田が負けたことについて聞かれ
「俺は永田に対して”凄いな”と思っている」と言ってのけた。
試合でも何度も永田の蹴りを受け止め続け、試合後にはお互い頬を張りあってガッチリ握手した。
永田は泣いていた。側にピッタリと寄り添うライガーの姿。
ファンからは「永田がんばれ!!」と大きな声援が飛んだ。
その後の新日本プロレス
永田対ミルコから1か月。
2002年の2月には武藤敬司、小嶋聡、ケンドー・カシンやフロントスタッフ5人が新日本プロレスを退団し、全日本プロレスに移籍。
格闘技路線を持ち込もうとする、猪木の影響というのが大きな原因と言われている。
また、2002年には“長州力””佐々木健介”も退団しており。
2003年からは新日本プロレスの売り上げもどんどん下がっていった。
これ以後、新日本プロレスは”暗黒期”に突入していくのであった・・・。
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