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Ⅳ.十字架の勝利
アンドリュー・マーレー
「彼は、私たちを責めて不利に陥れていた証書を、その規定と共に塗り消し、
これを取り除いて、彼の十字架に釘づけてしまわれました。
そして、支配者たちと権力者たちを御自身からはぎ取り、
さらしものとして、彼らに対して勝ち誇られたのです。」
(コロサイ二・一四、一五)
神がアダムを楽園の中に置かれた時、それはアダムが楽園を享受するためだけでなく、それを守るためでもありました。
そこに何らかの悪の勢力が存在していたことは明らかです。
アダムはそれに警戒し、それから楽園を守らなければなりませんでした。
神が六日間で造られたものはすべてはなはだ良いものでしたから、悪はその前から存在していたに違いありません。
悪がどのように存在するに至ったのか、また悪がどこから来たのか、聖書は啓示していません。
しかし、悪が存在すること、そして新しく創造された神の園と人の住まいの中心に悪が危害を加えて滅ぼそうと脅かしていた事実で十分です。
神の狙いはこの悪しき者から力を奪い去ることであり、人という手段を通してそうすることを計画されました。
この思想から自然に、人はすでに自分の前に存在していた悪を征服するという、まさにこの目的のために創造されたのではないか、ということがうかがえます。
これがこのあまり重要そうには見えない地球を宇宙の歴史の中心としました。
混沌が生じたのは間違いなくこの悪の勢力によってであり、この悪の勢力は前の王国の廃墟の中から起こされたまさにこの世界でも、前の王国を維持しようと依然として狙っていました。
まさにその世界に人は創造されたのです。
それは人がそれを征服して追い出すためでした。
この世界が神と天使たちの目から見てこんなにも重要なのはそのためです。
この世界は天と地獄が衝突して、命がけの戦いが行われる戦場なのです。
十字架の敵
聖書から教わろうとしないかぎり、私たちは悲惨な人類の歴史を決して正しく理解できません。神には万物に対する支配的目的があります。
他方、自然な成長や発展にしか見えないもののただ中に、一つの組織的体系・王国があって、それが人々を支配し、暗闇の中に保ち、神の御子の王国に対する戦いのために利用しています。
私たちには思いもよらない規模で、時代の緩やかな流れの中、神が忍耐しておられる間、人間の意志や行動の完全な自由のただ中で、絶えず戦いが続いてきました。
この問題に疑問の余地はありませんが、この戦いは長期にわたる破壊的なものです。この戦いの歴史において、
十字架は転換点です。
最初に読んだ御言葉は素晴らしい啓示を与えます。
それは十字架の贖いの意義を示しています。
彼は御自身から主権者たちや権力者たちをはぎ取り、さらしものとして、(十字架において)彼らに対して勝ち誇られました。
十字架の暗闇の中、暗闇の力は猛攻撃を加えました。
彼らは自分たちの恐るべき力を総動員して彼に押し迫り、まさに地獄の暗闇と凄惨さをもって彼を取り囲みました。
彼らは分厚い暗雲を形成したので、神の御顔の光さえも彼を見放しました。
しかし、彼は御自身から彼らをはぎ取り、敵どもを打ちのめして、誘惑に勝利されました。彼は彼らをさらしものとして、霊の全世界に、御使いたちと悪鬼どもの前で、
御自身の勝利を知らしめたのです。
墓さえも死者を解放しました。
こうして彼は彼らに対して勝利されました。
このもう一つの世界では十字架は勝利の象徴です。
彼は勝利のうちに彼らを捕虜として引いて行かれました。
彼らの力は永遠に砕かれ、彼らが人々を閉じ込めていた獄屋の門はこじ開けられ、彼らに捕らえられていた者たちに解放が告げ知らされました。
この世の君は今や追放されています。
彼にはもはや解放を望む人々を束縛の下にとどめておく力はありません。
彼が今支配できるのは、彼の奴隷であることに同意する人たちだけです。
今や、自分自身をキリストとその十字架に委ねる人はみな、完全に自由です。
十字架は勝利です。
これが最初に読んだ御言葉が示す偉大な教えです。
十字架は勝利です。
この勝利はキリストが「成就した」と叫ばれた時から始まりました。
これが凱旋行進の始まりであり、キリストはこの凱旋行進の中、隠された栄光を伴って世界中を歩まれます。
彼はとりこにされていた者をとりこにし、彼が贖った者たちを自由の中に導かれます。
そして信者は今、「神に感謝します。神は私たちをキリストにあって常に勝利のうちに導いてくださいます」といつも喜んでいることができます。
十字架の思想、十字架の下の歩み、十字架の宣言はすべて、神の勝利の音色を帯びているべきです。
「死は勝利に飲み込まれました。神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えてくださいます」。
これ抜きでは、十字架の力の意義に関する私たちの理解やそれに関する私たちの経験には欠け目が生じるにちがいありません。
私たちの個人生活でも、また他の人々のための私たちの労苦でも、私たちはこの欠け目を経験するでしょう。
私たちの個人生活の中で十字架は重荷となり、十字架を負うようにという召しは従うのが困難な律法となり、十字架につけられた生活を生きようとする試みは失敗し、日ごとに死ぬという思想にうんざりしてしまうでしょう。
肉を十字架につけるには絶えず目をさまして自己を否む必要があるため、これは成功する見込みのない無駄な努力だと諦めてしまうでしょう。私たちが
十字架は勝利である
ことをある程度悟らない限り、そうなるしかありません。
私たちは肉を十字架につける必要はありません。
それはキリストが行って下さいました。カルバリの十字架の行為は決済ずみの取り引きです。それから発する命と霊は絶えざる力を及ぼします。
私たちに対する要求は信じることであり、快活であることです。
彼の死以外の何物も私たちにとって十分ではありません。彼の死以外の何物も私たちの役に立ちません。
「神に感謝します。神は私たちをキリストにあって常に勝利のうちに導いてくださいます」。
この世における私たちの奉仕で、暗闇の力に対する十字架の勝利を信じることはとても重要です。
この真理に対する洞察力だけが、私たちの敵の超自然的な力や超自然的な狡猾さを私たちに教えることができます。
これ以外の何ものも、私たちが「この暗闇の世の支配者に対して」格闘する時、私たちの目標がどうあるべきかを教えることはできません――私たちの目標は人々をこの世から、この世の君の力から連れ出すことです。
十字架が勝ち取って永遠に私たちに与えられた勝利に対する洞察力、これ以外の何ものも私たちを私たちの真の立場に立たせることはできません。
私たちは私たちの勝利の王の道具であり、僕です。
私たちの唯一の願いは彼にあって勝利のうちに導かれることです。
これ以外の何ものも、私たちの勇気と希望を奮い立たせられません。
敵が大いなる力で私たちに押し迫り、私たちが自分の無力さを感じる時、この勇気と希望を私たちは必要とします。
あらゆる奉仕や戦いにおいて、私たちは信仰によって、「神に感謝します。神は私たちを常にキリストにあって勝利のうちに導いてくださいます」と言うことを学ばなければなりません。
愚かさと弱さ、屈辱と恥を伴う十字架は、永遠にキリストが勝ち取られた勝利のしるしです。
キリストが勝利されたのは、この地上の戦いの武器によってではありません。
この勝利により、教会も、キリストのすべての信者も、常に勝利を得ることができます。
それは、十字架につけられた主の霊の中にますます深く入り込み、ますます完全に自分を主に委ねることによってです。
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