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小西一禎(こにし・かずよし)
ジャーナリスト。慶應大卒後、共同通信社入社。2005年より本社政治部で首相官邸や自民党などを担当。17年、会社の「配偶者海外転勤同行休職制度」を活用し、妻・二児とともに渡米。20年、休職満期につき退社。米コロンビア大東アジア研究所客員研究員を歴任。駐在員の夫「駐夫」として、各メディアへの寄稿・取材歴多数。今後の執筆分野は、キャリア形成やジェンダー、海外育児、政治、メディア、コーチングなど。『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社)は初の著作。
アントニオ猪木氏が語る「イラク人質救出劇」、
直観力で捉えたサレハ議長の“サイン” とは
(1990年12月5日)
「燃える闘魂」アントニオ猪木が腰の治療で入院してから4カ月余り。一時期心配された状態は着実に回復し、その経過はYouTubeで都度公開されており、一日も早い復帰が待たれる。このほど上梓した猪木の政治ヒストリー『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社)では、政治家・猪木の知られざるエピソードをふんだんに盛り込んだ。とりわけ、猪木がインタビューで最も「熱く」語ったのは、日本中が感動に包まれた30年以上前のイラク人質解放劇だ。
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「イラクのインパクトが強すぎましてね。やっぱり。政治家冥利に尽きるというか」
「今でも鮮明に覚えています。誰と会って、何を話したか。細かい話も含めて、本当にしっかりと覚えていますね」
1990年8月、イラクのフセイン大統領が隣国・クウェートに電撃的に侵攻した。事態を重くみた国連安全保障理事会はイラクに対し、貿易や金融取引を全面的に禁じる包括的な経済制裁を直ちに決定した。米国主導の包囲網が着々と築かれるのに猛反発したフセインは、クウェートを併合することを宣言。両国在住の日本人を含めた外国人の出国を禁じ、主要軍事施設などに「ゲスト」として強制的に分散した。いわゆる「人間の盾」、人質を取った形で、関係各国には衝撃が走った。
猪木は「スポーツ平和党の党首として、現地で何が起きているのか、自分の目で確認したくなった」とイラク行きを思い立つ。理由は「誰も行けない、行かないのなら、俺が行くしかないよねと。極めて単純な発想です」。プロレス時代から際立っていた抜群の発想力や行動力は、政治家になっても色あせるどころか、さらに勢いを増していた。
ほぼ1年前となる89年夏の参院選で初当選したばかりの新人議員。プロレスラー出身としては史上初となる。永田町の世界では、新人議員に大きな仕事が回ってくることは極めてまれだ。ましてや、自分で大きな仕事を取りに行くことは、ご法度のようなもの。先輩議員の陰に隠れながら、とにかく汗をかき、大人しく過ごして、2期目の当選を目指すのが常識だ。
若干28歳で新日本プロレスを設立し、選手兼社長として過激なプロレスをプロデュース。プロボクシング統一世界ヘビー級王者のモハメド・アリと「世紀の異種格闘技戦」に臨むなど、プロレスラーとしての栄光を極めていた猪木に、そんな常識など通用しない。名言にある「猪木の常識、非常識」。アリ戦で得た世界的な知名度を背景に、バッジなどなくても何ら仕事に困ることなく、失うものがない猪木にとって、イラク行きはごく普通だった。
「自然体というか。いや、自然体というよりは、そんな役割を俺がもらっちゃって良いのかな、ぐらいの思いでしたね。世界の誰も動いていない、動けなかったんだから」
猪木のプロレスは「9割は相手の技を受け止めた上で、残りの1割で勝つ」という流れで、メインイベンターとして最後は勝利に輝くという試合が目立った。政治の世界でも、自らの役割を自覚し、相手の話をとにかく最後まで聞いた上で、その後に自らの意見を伝えるスタイルを貫いた。プロレスの流れを汲む「猪木外交」の真骨頂は、相手側の信頼獲得につながっていく。
旧知のパキスタン人新聞記者を通訳として引き連れ、クウェート侵攻の翌9月に、イラクに乗り込む。「最初はいきなり飛び込んじゃいましたから、大騒ぎになりました」と興奮の反面、不安を隠し切れなかったものの、親日的なイラク側は猪木の訪問を、国益の観点から重視し、要人との会談が次々とセットされていく。
国民議会のサレハ議長を皮切りに、フセインの長男であるウダイ・フセイン・スポーツ委員会委員長、イラクナンバー2のラマダン第一副首相らと会談。どの会談でも相手側は、日米両国の対応を非難し、米国に追随する構えを見せる日本への失望を表明するなど、冒頭から長時間にわたって一方的にまくしたてたという。
猪木はタイミングを見計らって、自らができることは可能な限り実現する、イラク側の主張は日本に伝えるなどの旨を説明。そして、早期解放が必要な人名リストを手渡し、スポーツと芸能を組み合わせた「平和の祭典」開催を提案、快諾を得られた。猪木流の外交で、矢継ぎ早に結果を出していく様に、現地の日本大使館をはじめ、邦人社会は目を見張った。
ところが、一定の成果を残した猪木は帰国後、激しいバッシングにさらされた。1年生議員の活躍に強い嫉妬を抱いた国会議員のみならず、政府、外務省、さらにはメディアまで。平和の祭典実現に向け奔走するものの、前向きな反応を示していた現地の日本法人に対し、本社側は冷徹な姿勢で壁にぶち当たる。外務省が横やりを入れていたとされる。
インタビューで「私には、あまり計算がないんです。誰もやらない、できないことをやるという人生観を持って、今日に至っています。『計算すれば、もうちょっとおカネもこれだけ残ったのに』なんて言う人もいますが、一切気にしていません」と振り返った猪木。計算を度外視し、何よりも行動が先に走る性分は、バッシングを浮揚力に変えていった。
そして平和の祭典が実現したが…
翌10月の2回目の訪問では、平和の祭典の開催で合意する一方、平和の祭典に日本人人質の妻を連れていく意向を伝えた。相手は最初の会談で、ウマが合うと感じたサレハ議長。「『もし人質の奥様方が一緒に来たら、迎えてくれますか』と尋ねました。すると『ああ、その時に一緒に帰れたらいいですね』と漏らした一言をしっかりと捉えましてね。ほんとに言葉の機微ですよね。これはもう直感力みたいなものです」
事態が長期化し、健康状態が危ぶまれ始めた人質解放に向けたかすかなサイン。物事を判断する時に、猪木が何よりも大切にする「直感」は、言葉の機微を逃すことなく、見事に捉えた。そしてその直感は、結果的に当たることになる。
12月に首都バグダッドで開催された平和の祭典には、日本人人質の42家族46人が同行した。条件つきの下、会場で人質と家族の再会がかなうなど、事態打開に向けたムードは高まるばかり。ただ、要人と会談を重ねても、先方から前向きな返事が得られなかった。今回もフセインとの会談は実現できないままで、猪木は焦りの色を濃くした。
フセインに手紙を書くようアドバイスを受け、ホテルに篭り、人質解放の要求と平和の祭典開催の意義などを記した書簡を書き終えたのは午前4時。数時間後には、帰国便の搭乗手続きを一旦済ませて機内に乗り込んだが、在留日本人会の説得を受け、急きょ滞在を延長した。イラク側が滞在延長を速やかに許可したことに、解放への希望的観測が出てきた。
「とにかく無我夢中でした。イラクの件は、話し始めるとストーリーが長すぎるんで、どこを刻めばいいのか分からないですが、(手紙を書き、イラクに残るのを決めたのは)ひとつの象徴的なシーンですね」と振り返る猪木。そして翌日、フセインの長男・ウダイが「父である大統領の特別令により、皆さんは奥様方と一緒に帰国できることになりました」と人質と家族を前に伝え、人質解放が決まった。全力で書き上げた手紙と滞在を延長したことが、実った瞬間でもあった。
人質とその家族を連れた猪木の帰国時、史上空前の300人の報道陣が成田空港に駆け付けた。新聞・テレビはイラクでの解放劇、成田で出迎えた家族や会社関係者らとの再会劇を大々的に報じた。解放から1カ月後の91年1月には湾岸戦争が勃発。米国を中心とした多国籍軍が勝利を収めてから30年以上の時が流れた。
「プロレスを馬鹿にする世間、風潮と、長年ずっと闘ってきましたから。ただの1年生議員が、パフォーマンスでも何でもない、自分の体を張って、体ひとつで乗り込み、一生懸命に取り組んだ。俺しかできない、俺以外、誰もできるはずがない役目だと信じていました。よくもまあ潰されなかったと思いますよ」と猪木。絶大な知名度と行動力を武器に成功に導いた「イラク人質解放劇」は、猪木政治の最大の功績として今後も刻まれていく。
(文中敬称略)
デイリー新潮取材班編集
2021年5月25日 掲載
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