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はじめに:『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』
2022.9.8
野口 悠紀雄/一橋大学名誉教授
どうすれば日本人の賃金は上がるのか
野口 悠紀雄 著
990円(税込)
1940年生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年イェール大学Ph.D.取得。一橋大学教授、東京大学時教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授などを歴任。専門はファイナンス理論、日本経済論。
【はじめに】
毎日、勤勉に働いているのに
賃金が上がらない
賃金や給与は、生活の最も基本的な条件を決める重要な要素だ。
ところが、日本人の賃金は、この20年以上の期間にわたって、ほとんど上昇していない。これは先進国では例外的な現象だ。
多くの国で賃金が上昇しているので、日本人は相対的に貧しくなっている。この傾向には、なんとか歯止めをかけなければならない。
なぜ日本人の給与が増えないのか? それは日本人が怠けているからではない。それどころか、毎日、勤勉に働いている。それにもかかわらず、賃金が上がらない。そうなる原因は、個人の努力を超えるところにあると考えざるを得ない。
どれだけの賃金や報酬を得られるかは、個人の努力によって変わる面もあるが、普通は、社会的な制度によって決まってしまう部分が大きい。実際、会社に勤めている人の場合には、給料について個人の裁量で変わる余地はほとんどない。
だから、日本の賃金が上がらなくなってしまったのは、日本社会の仕組みに問題があるからだと考えざるを得ない。現在の日本の制度が合理的なものではないから、真面目に働いても賃金が増えないのだ。
なお、問題は社会全体の平均賃金だけではない。自分の働きが正当に評価されていないと考えている人は多いだろう。これは、不公平というだけでなく、日本社会の活力を奪うことになっている可能性が高い。
不合理な社会の仕組みを変える「2つの力」
では、どうすれば、社会の仕組みを変えられるのか? 言うまでもないことだが、社会的な仕組みを変えるのは簡単なことではない。しかし、全く不可能というわけでもない。
不合理な仕組みを変える力として、2つのものがある。第1は、「マーケットの力」だ。不合理な仕組みを採用している会社には有能な人材が集まらず、集まっても業績が上がらない。その結果、その会社は淘汰される。そして、合理的な仕組みを採用している会社が成長していくだろう。
しかし、現実の社会には、こうした力の働きを妨げる要因がある。しかも、こうしたメカニズムが働くには、長い時間がかかる。
不合理な仕組みを変えるもう一つは、「政治の力」だ。様々なルールや規制が採用されたり、政策が行われたりすることによって、給与の仕組みが合理的なものになっていくことが期待される。実際、日本の政治の場でも、賃金の引き上げは重要な問題として取り上げられている。
ただし、これも万全なものではない。本当に有効な対策が行われているかどうかについては、大きな疑問がある。
なぜ政治が介入しても賃金が上がらないのか
政治的な力が現状を改革しない基本的な理由は、「賃金が決まるメカニズムが正しく理解されていない」ことだ。
現在の状況を変えていくためには、国民一人ひとりがいまの仕組みにどのような問題があるかを正しく理解し、それを変えることを政治に求めなければならない。
だから、仕組みを合理的なものにするためにまず必要なのは、賃金がどのようなメカニズムで決まるかについての正しい理解だ。賃金は一体どのような仕組みで決められているのか、そして、そこにどのような問題があるかの理解だ。
「労働者は資本家によって搾取されており、そのために賃金が上がらない」という考えがある。マルクス経済学の影響を受けた人たちには、このような考えを持つ人が多い。
賃金の決定に労使交渉が影響していることは間違いない。しかし、それは賃金の基本的な水準を決めるものではない。
賃金の基本水準は、企業の「稼ぐ力」によって決まる。これは経済学で「付加価値」と呼ばれているものだ。売上高から売上原価を差し引いたもので、「粗利益」とも呼ばれる。
粗利益は、その重要性にもかかわらず、企業会計でこれまでさほど注目されていなかった。これは、多くの人が企業を投資の対象として見ているからだろう。そのため、利益に関連した指標が分析の対象とされてきた。
しかし、賃金や給与を考える場合には、付加価値=「稼ぐ力」が最も重要な指標だ。本書の議論は、この指標を軸として展開される。
就業者一人あたりの付加価値は、「生産性」と呼ばれる。だから、「賃金は生産性によって決まる」といってよい。
統計を見ると、付加価値中の賃金の比率は、時系列的にあまり大きく変化していない。だから、日本の賃金が20年間上がらない基本的な原因は、労働組合の力が弱まったことではなく、企業の稼ぐ力が停滞していることなのである。
したがって、賃金を高めるためには、企業の稼ぐ力を高めなければならない。そして、その障害となっている条件を取り除き、稼ぐ力を高める環境を整備しなければならない。これが、賃金の問題を考える際の最も基本的な視点だ。
なお、「賃金」「報酬」「給与」などは、厳密には別の概念だ。これらと「所得」も別の概念だ。ただし、これらを厳密に区別する必要がない場合も多い。そうした場合、本書では、厳密な区別をせずにこれらの言葉を使っていることがある。
本書の構成
本書は、つぎのように構成されている。
第1章では、アメリカ先端IT企業の給与が驚くべき額になっていることを見る。例えば、グーグルのトップクラスのエンジニアの年収は、1億円を超える。こうなるのは、先端IT企業の「稼ぐ力」が途方もなく大きいからだ。アメリカでは、このような企業が先導分解し、情報処理産業を中心として経済全体の賃金が上昇している。
賃金が目覚ましく上昇しているのは、アメリカだけではない。韓国や台湾の賃金も、高い伸び率で成長を続けている。韓国の賃金水準は、すでに日本より高くなった。その反対に、ウクライナ侵攻で世界に衝撃を与えたロシアの賃金は、著しく低い。これは、ロシアの企業の「稼ぐ力」が弱いからだ。こうした状況を第2章で見る。
「稼ぐ力」が信じられないほど高い企業が、アメリカ以外にも現れている。例えば、先端半導体の製造装置のメーカーであるオランダのASMLだ。なぜ日本では、このような企業が現れないのか? その理由を第3章で探る。
日本の中でも、給与が高い人と、そうでない人がいる。誰しも、自分が日本社会の中でどの程度の位置にいるのかを知りたいと思うだろう。だが、それを統計の数字から読み取るのは容易でない。なぜなら、多くの場合、統計は平均値しか示していないからだ。もっと具体的なイメージを描ける評価ができないだろうか? この問題を、第4章で考える。
賃金や給与には、格差がある。こうした差は、何によって生じるのだろうか? これが第5章の課題だ。本書の答えは、格差は資本装備率によるということだ。この章では、さらに、「一人あたり付加価値」を「一人あたり売上高」と「売上高に対する付加価値の比率」に分解して、分析する。
2022年になって、日本は激しい物価高騰に襲われている。その半面で、賃金は上がらない。したがって、日本人の生活は苦しくなる。なぜ賃金が上がらないのか? こうした状況から脱却するには、どのような政策が必要か? この問題が第6章で論じられる。
第7章では、日本の賃金を長期的停滞状態から脱却させるために何が必要かを考える。
これまでの日本の賃金政策は、「賃金を引き上げるためには付加価値を増やす必要がある」という基本を踏まえないものであったため、有効なものとなり得なかった。
付加価値の増加は、決して簡単な課題ではない。ここには、税制、年功序列的賃金体系、女性労働力の活用、組織間の労働力流動化の促進など、社会の基本的な仕組みに関わる問題が含まれている。日本人の賃金を引き上げることは、日本経済を再活性化することとほぼ同義であり、その実現には、日本社会を根底からオーバーホールすることが必要だ。
ところで、本書の執筆期間中に急激な円安が進行した。このため、原稿を執筆した時点の違いによって、円とドルの換算レートにかなりの違いが生じることとなった。こうしたことは、初めての経験だ。この期間の円安進行がいかに異常だったかが、改めて分かる。
いずれかの時点のレートに揃えることも考えられるが、そのレートが適切なレートという理由もない。そこで、執筆時点の換算レートのままとし、そのレートを明記することとした。
政府も日本銀行も、「為替レートの急激な変動は望ましくない」としている。書籍の執筆にさえこれだけの混乱をもたらすのだから、実務での混乱はいかばかりであろう。日本経済がかつてない混迷の時代に入ったことを実感する。
本書は、ダイヤモンド・オンライン、東洋経済オンライン、現代ビジネスなどに公表したものを基としている。これらの連載にあたってお世話になった方々に御礼申し上げたい。
2022年7月 野口 悠紀雄
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