「水草牧師の神学ノート」さんより
キェルケゴールの影響を強く受けたK.バルトの啓示観も客観的真理と主体的真理の分離構造をなしている。バルトによれば、聖書は客観的には、啓示の体験者の誤りを含む証言であって、神のことばではない。しかし、聖書を前に神に実存的・主体的に応答するとき、聖書はその人にとって<神のことばになる>という。
聖書主義の立場からいえば、聖書は客観的にも神のことばである。聖書は私が信じようが信じまいが神のことばなのである。聖書は、信じる者には祝福をもたらし、信じない者には呪いをもたらす神の力あることばである。神が我々に求めていらっしゃるのは、非合理な飛躍ではない。神が我々に求めたまうのは、聖霊によって啓示された客観的真理である神のことばを、聖霊の照らしによって主体的に信じて従うことなのである。
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