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思想・良心の自由(憲法19条)
目次
思想および良心とは?
思想および良心の保障の意味
思想・良心の自由に関する重要判例
憲法第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
思想および良心とは?
思想および良心の自由とは、心の中で何を考え、何を思うかは、他人から一切干渉されない自由を言い、思想および良心の自由は、憲法で保障されています。
そして、「思想及び良心」とは、「宗教上の信仰に準ずべき世界観・人生観等個人の人格形成上確信をなすもの」と解されています。
思想および良心の保障の意味
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「侵してはならない」とは、下記2つの意味があります。
国民がいかなる国家観、世界観、人生観をもとうとも、それが内心の領域にとどまる限りは絶対的に自由であり、国家権力は、①内心の思想を理由に不利益を課すことはできず、②特定の思想を禁止することもできない
国民がいかなる思想を抱いているかについて、国家権力が、その思想がどのようなものかを表明するよう強制することはできない(沈黙の自由)
例えば、江戸時代のキリスト教徒の弾圧の際に行われた「踏み絵」や、天皇制の支持・不支持について強制的に行われるアンケート調査は認められません。
思想・良心の自由に関する重要判例
衆議院議員総選挙に立候補したXと、その対立候補のYがいました。
Xは、選挙運動中に、ラジオや新聞を通じて、「Yが副知事在職中に汚職をした」事実を公表した。
しかし、Yには、そのような汚職の事実はなく、名誉毀損を理由にXを訴え、一審、二審とも、名誉毀損を認め、Xに対して新聞に謝罪広告を掲載することを命じた。
これに対しXは、「謝罪広告を強制することは、憲法19条の保障する良心の自由を侵害する」として、上告しました。
最高裁は、「謝罪広告を新聞等に掲載することを命ずることは、債務者の人格を無視して、著しくその名誉を毀損して、意思決定ないし良心の自由を不当に制限するものとなる」ということは認めたうえで、「単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる程度のものであれば、これを強制したとしても、憲法19条に反するものではない」とした。(最大判昭31.7.4:謝罪広告事件)
Xは麹町中学校に在籍中に、政治活動をしていた(麹町中全共闘と名乗り、文化祭紛争を叫んで学校内に乱入、ビラまきをしていた)。そのことが、高校受験における内申書に記載され、「基本的な生活習慣」「公共心」「自省心」の欄にC評価(三段階の最下位)を付けられた。
その結果、Xは高校受験にすべて落ちた。これに対して、Xは、思想・良心を教育の評価対象とすることが、思想・良心の自由に反するのではないかと争われた。これに対して、
最高裁は「内申書の記載は、Xの思想・信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、ここに書かれた外部的行為によってXの思想、信条を了知しうるものではないし、また、Xの思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、違憲の主張は前提を欠き、採用できない」とし、Xの請求を棄却した。つまり、「内申書に記載されていたことは単に外見的な行為にすぎず、思想信条を記載したものではない」とし、内申書に記載した内容は、思想・良心の自由に反するとはいえないとした。(最判昭63.7.15:麹町中学内申書事件)
市立小学校の教諭Xは、校長から「入学式の国歌斉唱の際に『君が代』のピアノ伴奏をするよう」職務命令を受けたが、Xは、職務命令に従わなかった。そのことが原因で、Xは、教育委員会から戒告処分を受けた。それに対してXは、上記命令は思想・良心の自由を定めた日本国憲法第19条に違反するとして、上記処分の取消しを求めた。これに対して、最高裁は、「Xに対して本件入学式の国歌斉唱の際にピアノ伴奏を求めることを内容とする本件職務命令が、直ちに上告人の有する上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものと認めることはできないというべき」として、本件職務命令が憲法19条に違反しないとした。(最判平19.2.27:「君が代」ピアノ伴奏拒否訴訟)
市立小学校の教諭Xは、校長から「君が代斉唱時に起立するよう」職務命令を受けたが、Xは、職務命令に従わなかった。そのことが原因で、Xは、教育委員会から戒告処分を受けた。それに対してXは、上記命令は思想・良心の自由を定めた日本国憲法第19条に違反するとして、上記処分の取消しを求めた。これに対して、最高裁は、「上記の起立斉唱行為は、学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、『日の丸』や『君が代』が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする当該教諭の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものではなく、上記職務命令は、その歴史観ないし世界観それ自体を否定するものとはいえない。」として、本件職務命令が憲法19条に違反しないとした。(最判平23.5.30:「君が代」起立斉唱拒否訴訟)
「信教の自由」 と 「信仰の自由」
#信教の自由 #信仰の自由 #零 #無限大 #憲法19条 #憲法20条 #神道
法律
2019年08月13日
「信教の自由」は誰かの「教えを信じるかどうかの自由」で、「信仰の自由」は主に「何か(神など)を信じるかどうかの自由」です。
「信教の自由」では、教える人が複数いる場合での「布教合戦?」の自由や、個人として誰を信じるかの自由を保障していて、日本では「公はこれに関与してはならないと」されています。しかし、「教え」が一つしかない場合は「信教」とは言えない場合も有ります。例えば「人の死を悼む事」や「神の”存在”を信じる事」です。ここでの「神の”存在”を信じる事」は「存在」を信じるだけであり「神の力」を信じる事ではありません。また、これらをを「当然の事」と思っている人にとっては、これは「教え」ではなく「歴然たる事実や風習」です。これを否定する場合は「新しい根拠」が必要になりますが、信じる人の心の中に立ち入ることになり、その根拠自体が「宗教」と言えなくも有りません。
一方、「信仰」の場合は個人の問題であり、信じる対象は「無数」にあります。
ここで余談ですが、「無数」とは「数が無い⇒0」ではなく「多くて数えることが出来ない⇒無限大」と云う意味です。また、「0」は「少なくて数えることが出来ない」訳では無く、単に「無い」だけです。一見「無い」よりも少ない状態は無いとも思えますが「-1」は「0」よりも少ない数で、「マイナス無限大」と比べると「0は無限に大きな数」と言えます。
「無数」は「色即是空、空即是色」を一言で表現しています。式で書くと「0=無限大」です。また、「零細企業」の「零」は「小さい、とるに足らない。」と云う意味だそうですが、式で表すと「零≠0」です。日本では「零細企業」は「経済の基盤」とも言え「無限の可能性」を秘めています。算数は「宗教的な学問」と言える為、学校で教える事は禁止されるべきだと思えます。
憲法第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
「信仰の自由」は、「信教の自由」とは違い憲法では保障されていませんが、同時に公の関与も「憲法第20条」では禁止されてはいません。「神道」はこれを布教したり何かの教えの説く人もいない事から「宗教」とは言えないのですが、「信仰」する人は大勢います。
憲法第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
「信仰」が「思想」に当たるのかどうかは判りませんが、「信仰の自由」を保障する文言はこれ以外には見当たりません。「信仰」とは、特定の誰かから教えて貰う訳でもなく、生活の中で「何かを見て」自然に身に付いた慣習であり、「自分の良心」とも言えるからです。
「神道」は自然崇拝の「信仰」が昂じてうまれた「お祭り(祭祀)」の集大成で、古事記や日本書紀を原典にはしていますが、記紀は何かを教え諭している訳では無く、「神々や天皇の歴史」が書かれているだけなので、「神道の経典」では有りません。
GHQによる「神道指令」で「神道」が政教分離の対象になり、今なおその影響が残っていますが、憲法では「公による宗教教育の禁止」とは書かれていても、「道徳・慣習や歴史の教育」は禁止されていません。つまり、「参拝の作法や礼儀」は「毎日の挨拶」と同様に、学校で教えても問題なしと言えます。
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