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家入一真◎1978年福岡県生まれ。paperboy&co.(現GMOペパボ)創業者。そのほか、「BASE」、「CAMPFIRE」の共同創業、モノづくり集団「Liverty」「リバ邸」などを立ち上げてきた連続起業家。2018年6月、シードラウンド向けベンチャーキャピタル「NOW」を設立。https://ieiri.net/


UNDER 30 2018/08/03 12:00


CAMPFIRE 家入一真「元引きこもり、起業が生きる手段だった」 

文=辻広郁


Forbes JAPAN 編集部 FORBES JAPAN

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レンタルサーバーからクラウドファンディングサイト、ウェブメディアにシェアハウスまで。起業家・家入一真が手がけてきたプロジェクトは多岐にわたるが、その活動の根底には「引きこもりだった頃の自分」がいるのだと彼は言う。

8月22日に発表される「30 UNDER 30 JAPAN」ソーシャル・アントレプレナー部門のアドバイザリーボードを務めてくれた家入に、編集部は今回、「UNDER 30」だった頃の話を訊いてみた。ぽつりぽつりと、彼は昔を思い出しながら、はじめての起業と上京の思い出、「居場所」をつくり続けてきたこと、そして、いまのUNDER 30たちへのメッセージを語ってくれた。

引きこもりから引きこもりへ

僕は、中学二年生のときにいじめが原因で学校に行けなくなってしまって、ほぼ登校拒否のような状態で引きこもりになってしまいました。高校には入学したものの、ほとんど行くことができずすぐに辞めてしまいました。

家にこもっている間は、もともと絵を描くのが好きだったので油絵を描いたり、中古のパソコンでプログラミングをしていましたね。そのうちに、もっとちゃんと絵を学びたいと思うようになり、大学入学資格検定をとって東京藝術大学に行こうと考えました。でも、家はすごく貧しくて学費は出せないと親に言われて..。

新聞奨学生制度に応募をして、住み込みで新聞を配りながら学費を稼ぐ日々を送っていたある日、父親が事故に遭って働けない体になってしまったんです。僕が長男だったこともあり、自分が働かないと家族が生活できなくなってしまった。大学進学は諦めざるを得なくなりました。

福岡の片田舎のデザイン会社のそのまた下請けのような会社に入れたのですが、ずっと引きこもってきた人間にとって、定時で出社したり、打ち合わせに参加したりするのは苦痛でしょうがない。やがて朝時間通りに出勤できなくなり、最終的には足が一歩も動かなくなってしまった。結局、中学生の頃と同じ状況になってしまったんです。

起業だけが「生きる手段」だった

「僕は就職して仕事をすることができない」ということを強く実感しました。とはいえ生きていかなければいけない。そんなときに思いついたのがレンタルサーバーでした。

もともと自分の描いた絵をアップロードする場所としてホームページはつくっていたんです。その絵に対して見ず知らずの人がコメントしてくれたり、海外の人が英語でメッセージを残してくれたりして、ホームページは「新しい表現の場」になると思ったんですね。

ただ、ネックになるのはサーバー代。当時、個人向けのサーバーレンタル費用は月2000〜3000円で、若くて稼ぎのない人間には高かったんです。そこでペーパーボーイという会社を立ち上げてつくったのが、「ロリポップ」という格安のレンタルサーバーでした。

当時は起業したかったわけではなく、壮大な野望をもっていたわけでもありません。「生きる手段」としての起業だったわけです。それでも人が1人増え、2人増え。後ろ向きだった起業でも、会社がだんだんと「居場所」になっていった感覚はすごくあって。

ずっと「自分は本当にダメな人間だ」と思って生きてきましたが、自分で起業して居場所をつくって、スタッフやお客さんが増えていくなかで、だんだんと見える景色が変わっていった──そんなことを実感しながら20代前半は会社を経営していました。


コーラとレモン

突然3社からM&Aのオファーが来たのが、24歳のときでした。熊谷正寿さんのGMO、堀江貴文さんのオン・ザ・エッジ、それと西川潔さんのネットエイジです。

当時はM&Aが何かもわからなからなければインターネット業界のプレイヤーも知らなかったし、僕自身もスタートアップというよりは一中小企業をやっているつもりでした。でも、調べてみたらどうやらみんな有名な人らしい。なかなか会える人じゃないと思い、会うだけ会ってからお断りしようと思い東京に行きました。

それとは別の日に熊谷さんとお会いさせていただいて、最終的には熊谷さんの人柄に惚れ込んでしまいGMOに仲間入りすることになります。最初にお会いしたときに、GMOのオフィスが入っているセルリアンタワーの上の階に部屋を用意していただいて泊まったんですけど、冷蔵庫を開けたらコーラがぎっしり詰まっていて。

当時僕はお酒が一滴も飲めなかったんですが、なぜだかそのことを知っていて、お酒ではなくコーラと大量のカットレモンが入っていたんです。社会を知らない若者にとっては最高のおもてなしを受けた気持ちになって、そうした熊谷さんのホスピタリティや真摯なところが好きになってしまったのです。

熊谷さんは僕にとっていろいろな意味で先生であり、先輩であり、憧れの対象でした。10代で入った会社はすべて逃げるように辞めているし、20代前半で起業してからずっと自己流で経営をしてきたので、周りには先輩も同世代の起業家もいませんでした。だから、熊谷さんの存在はとても大きかった。起業家とはどういうものか、お酒の飲み方やお金の使い方に至るまで、すべてを教えてもらいましたね。

「失敗」に意味をつくるということ

それと同時に、当時は「熊谷さんみたいにならなきゃいけない」という焦りもありました。だから東京に来て最初にやったことは、彼を見習って毎日スーツを着ること。それから会社のなかではもともと「家入さん」と呼ばれていたんですけど、GMOみたいに役職呼称を徹底して、気まずいながらも「社長」と呼んでもらうようにしたんです。

そうやって背伸びして熊谷さんに近付こうとしたけれど、途中で疲れてしまった。いま思えば、僕は熊谷さんにはなれないし、なる必要もなかった。僕は僕なりのスタイルで経営をすればよかったのに、その頃は「経営者はこうあるべき」というイメージに固執していたところがあったように思います。

「居場所」をつくり続けて

東京に出てきてから29歳で上場したあとに、もっと幅広いことをやろうと思ってカフェを始めたんですね。熊谷さんには「飲食業はやめておけ」と言われたんですけど、ダメと言われるほどやりたくなっちゃうじゃないですか。持っていた株の利益もほぼ飲食店に投下して、一時は10店舗くらいにまで拡大させました。

結局はそれが失敗して、お金もどんどんなくなって、酒に溺れて、気がつくと友達と呼べる人もいなくなって…。あのときは最低でしたね。

「Liverty」という活動を始めたのがそのころです。ダメ人間っぷりを露出していくと、同じように社会からこぼれ落ちてしまった子たちが僕の周りに集まるようになってきた。ひとりじゃ何もできないかもしれないけれど、同じように傷を抱えた者同士だったら何か新しいことができるかもしれない──そうした想いで、それぞれの空き時間を使って一緒にプロジェクトを始めるようになりました。さまざまな起業家がそこから生まれましたし、鶴岡裕太くんのBASEもここから生まれたプロジェクトのひとつです。

何もかも失った瞬間はありましたけど、そのときに見えた世界から出発して、同じようにドロップアウトしてしまった人間が集まって、新しいものが生まれることになった。そう考えると、僕はずっと「居場所」をつくり続けてきたんだなと思います。

最初のロリポップも、クラウドファンディングサイトの「CAMPFIRE」や「polca」も、最近立ち上げた「若き怒りに投資する」ベンチャーキャピタル「NOW」も、ずっと個人に寄り添った小さな声を拾い上げるようなサービス、コミュニティをつくってきたんだなと。それらもすべて、起点となったのは中二のときに引きこもりになってしまった自分。声をあげたくてもあげられなかった、あの頃の思いに行き着くんです。

Livertyから派生した「リバ邸」というシェアハウスは、学校や会社からこぼれ落ちてしまったような子たちが集まれる場所なんですが、自分が中学生のときにこういう場所があったらもっと生きやすかった。そういう場所を、いま、自分の手でつくっているような感覚はすごくあります。

小さな一歩からはじまる

人間って誰しも、1冊の小説になる分の人生を歩んでいるものだと思うんです。たとえば年齢=ページ数とすると、僕は39ページまで来ていて。福岡で生まれて、中学でいじめにあって引きこもって、親が事故を起こして破産をして、起業をして、上場までして、でも失敗をして…というストーリーがある。人生とは、自分の小説の次のページをどう描こうか、さらにその次のページをどう描こうか、という積み重ねだと思うんです。

ここでいきなり僕が宇宙を目指すというのも、それはそれで面白いストーリーかもしれないけれど、そういう描き方は自分には出来ないと思っているし、するつもりもない。これまでの39ページがあるからこそ、いま描きたい1ページがある。その積み重ねでいまここにいる、という感覚があります。

いきなり大きな仕事をしようとしたり、大きな夢を描こうとすると、最初の一歩を始められずにそのまま日々が過ぎてしまう、ということはよくあると思うんです。だから、まずは1ページずつでいい。顔が思い浮かぶ身近な誰かに向けて、手紙を書くように喜ばせるといったところから、最初の小さな一歩は始まるんですよね。何をやっていいかわからなくて立ち止まってしまっている子には、いつもこのアドバイスを贈るようにしています。



CAMPFIRE 家入一真「元引きこもりの自分がほしかった『居場所』を、僕はつくり続けてきた」

110,191 回視聴•2018/08/03

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僕らがU30だった頃の話|WHEN I WAS UNDER 30

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UNDER 30 2018/08/03 12:00

CAMPFIRE 家入一真「元引きこもり、起業が生きる手段だった」

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YusukeKusuyama 48 🚹 👨 = 楠山祐輔 → HP - OFFICIAL !!!!!

Meta National Doctor ➣ YusukeKusuyama 滞在型グローバルワーカー 楠山家の楠山祐輔は楠木正成の血脈を引く一族であり聖武天皇と橘諸兄との繋がりがあることが楠山家文書などによって証明されています。楠木正成は建武の元勲の一人であり明治以降は「大楠公」と称され正一位を追贈されました。楠山家文書は南北朝時代から江戸中期にかけての郷村の発達を示す貴重な資料となっています。

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