「 クリスチャントゥディ 山崎純二 」様よりシェア、掲載。
ありがとうございます。感謝です。
山崎純二(やまざき・じゅんじ)
1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。米国ではクイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。ツイッターでも情報を発信している。
21世紀の神学(1)青山繁晴氏「キリストは100パーセント復活された」 山崎純二
2018年7月20日20時19分
詳しくは下を参照
私はいつの頃からか、テレビをまったく見なくなりました。それは自分がテレビの内容に魅力を感じなくなってしまったからです。もちろん中には良いコンテンツもありますが、多くの番組が自分とは合わなくなっています。だからと言って、テレビを批判するつもりはありません。これはテレビというメディアの特性と自分の関心事のズレの問題だと思っています。テレビはその特質上、CMを通して広告料を得ていますので、視聴率を求めなければなりません。そして、そのためには特定の人向けに深い内容を扱うよりは、老若男女に広く受け入れられる内容を提供しなければなりません。時間も限られていますので、大切なことであっても、大衆受けしない内容を深く扱うということはできません。
半面、30代ごろから興味深く聴いているのがラジオです。ラジオでは主に1人か2人の論客が、さまざまな社会問題について論じるので、比較的まとまった時間、テーマを絞って深く解説することが可能です。そしてリスナーは、彼らの視点・論点を通して多くのことを学ぶことができます。もちろん、すべてを鵜呑(うの)みにするわけではありませんが、教えられることが多いと感じています。
多くの優れた学者や論客たちの中でも、私は数人の方々に特段の関心を持ってきました。それは彼らの論じる内容に、深み鋭さがあり、専門性や独自性があり、同時に人としての温かさがあると感じたからです。この数人の方々の語ることを聞き続けた結果、私はある共通点を見いだしました。それは彼らの中に何らかの宗教性が色濃くあるということです。
しかし、そのことはあまり世間的には知られていません。それは彼らが自分の信仰を喧伝(けんでん)することはせず、内に強く秘めているからです。言葉にすることも多くありませんから、長年ラジオを聞いていても、気付かないほどです。しかし、世間的に有名であり、影響力があり、多くの著書をも書いている彼らの何人かはクリスチャンであり、何人かは仏教的な思想を色濃く持っています。彼らの活動力また人々に対する温かい視点の源泉がその宗教性にあることは、ほぼ間違いないと思います。
私が個人的に多くを教えられているこれらの人々の1人である佐藤優氏に関しては、以前「佐藤優氏の執筆動機および教義擁護策への警鐘」という題で書かせていただきましたが、今回は青山繁晴氏について書かせていただきたいと思います。青山氏は国や世界を憂い、多くの提言を行い、また行動に移してこられた方です。現在は参議院議員として、多くの言論活動をしていらっしゃいますが、特筆すべきは拉致被害者の救出に関する並々ならぬ姿勢です。彼は自分の命を賭してでも、被害者を救出しようと本気で取り組んでいます。私は以前から、この方のこの熱意と自己犠牲の精神はどこから来るのかと不思議に思っていたのですが、たまたまインターネットを通して彼のラジオ番組を聞いて、この謎が氷解しました。
青山氏はそのラジオ放送の中で、「キリストが100パーセント復活されたということを信じている」と語っていました。青山氏はエルサレム、そしてゴルゴタの丘に何度も行かれたそうで、その場に行ったときに、理屈抜きにキリストが死んで、墓に収められた後、復活したということを100パーセント確信したということです。私は非常に驚き、インターネットで検索したところ、青山氏は著書の中でも同様の内容を述べられていたようです。
青山氏の『危機にこそぼくらは甦る【新書版 ぼくらの真実】』(扶桑社新書)という本の書評を、ミオール / Mícheál さんという方が書いているのですが、一部を引用させていただきます。
「葉隠」の、武士道というは死ぬこととみつけたり、について死に方でなく生き方を説いたものと著者は解く。死ぬとは、人のために死ぬこと。主君のため、ではないところが、この書が禁書にされた最大の理由であったと思われる。人のために死ぬという心構えで生きよ、と著者は読む。同じことを著者はゴルゴタの丘に行ってつかむ。主イエズスがかけられた十字架を立てた穴が今も、その岩石に残る(丘でなく岩だった)。それを著者は見て、主イエズスの復活を確信する。著者はキリスト者でないが、主イエズスの生き方に、人類の罪を背負って死ぬことの意味をさとる。
青山氏は、ゴルゴタに行き、キリストの死と復活を確信し、自身もキリストが人類のために犠牲を払ったように、他者である拉致被害者をはじめ、多くの弱者のために命を懸ける心構えを持たれたのです。
これだけ聞くと、青山氏はクリスチャンなのかなと思いますが、先のラジオ番組の中で「自分はキリスト教の洗礼を受ける資格はないと思っている」とも言っています。それは、キリスト教の幾つかの教義が自分とは相いれないと感じているからだとのことです。このことについてはまた書かせていただければと思いますが、今日は日本でも指折りの論客であり、拉致被害者救出をはじめ国家の難題に非常に精力的に取り組んでいる青山氏が、「キリストは100パーセント復活された」と言及されたということを紹介させていただきたく書かせていただきました。
21世紀の神学
クリスチャントゥデイの編集長であられる宮村武夫先生は、「沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む」ということを教えてくださいました。つまり、遣わされた地に住みながら聖書を読んで神様の心を知るとともに、聖書をメガネとし、その地に対する神様の御心を考え、神学するということです。
それは地域だけでなく、「時代」においても同じことがいえます。私たちは激動の時代に生きています。かつて100年かけて起こった科学技術や生命科学の変化が10年で起き、それ以上の変化が3年、1年、数カ月のうちに起こるという時代に生きています。貧富の差はますます拡大し、異なる宗教や民族の方がすぐ隣で暮らし、人工知能、ロボットやその他の技術革新は、私たちの価値観、モラル、常識を次々に変えていきます。
このような時代に生き、生活し、時に苦しみ、悩みや不安を抱えながら、聖書を読んで神様の心を知ること、また聖書をメガネにこの時代を考えることの2つが、私たちには許されているのだと思います。ですから私は、これらのことを読者の皆様と一緒に考えていければと思っています。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26、27)
21世紀の神学(2)青山繁晴氏がキリスト者とならない理由 山崎純二
2018年8月3日22時29分
詳しくは下を参照
前回私は、日本でも指折りの論客であり、拉致問題などに命を賭す覚悟で取り組んでいらっしゃる参議院議員の青山繁晴さんが、「キリストは100パーセント復活された」と言及されたことを紹介しました。青山さんはエルサレム、そしてゴルゴタの丘に何度も行かれたそうで、その場に行ったときに、理屈抜きにキリストが完全に死んで、墓に収められた後、復活したということを100パーセント確信したということです。
青山さんは、キリストの十字架が人類の罪のためであることに気付き、感銘を受け、ご自身もまた人のために生きる生き方を実践しておられます。だからこそ彼は、他の政治家たちが二の足を踏んでいる拉致問題などの難問に、あたかもご自身の肉身のことのように熱心に取り組んでおられるのです。
ここで私が注目したいことは、青山さんがキリストの自己犠牲的な十字架の死にのみ感銘を受けたのでなく、キリストの復活について言及されたことです。キリストの十字架の死は歴史的な事実ですから、信仰に関係なく、多くの人がそのことに感銘や感動を受けています。しかし、キリストの復活は生物学的な常識では不可能なことであり、信仰に属する問題です。
もちろん人類の歴史の中では、死んで間もない人が蘇生したという例はあります。しかしキリストは、全身から多くの血を流して死なれ、その後ローマ兵がわき腹を槍で刺し、そこからも多くの血と水が流れ出ました(ヨハネ19:34)。さらに彼は屈強なローマの兵の監視のもと、大きな岩によって塞がれた洞穴に葬られました。
キリストはこのような状況の中から3日目に復活したと聖書は語っています。束の間、死んで蘇生したわけではないのです。ですからこれは、生物学的に、常識的に、まったく不可能なことでありますから、これを受け入れるか否かは信仰の領域なのです。
しかもキリストの復活を信じる信仰は、キリスト者が信じている多くのことの中の枝葉末節的な部分ではなく、一番中核的な部分です。まさにそのことを信じるか否かが、キリスト者であるかないかを分けるほどの、根幹的で中心的な事柄なのです。使徒パウロはローマ書の中でこう宣言しています。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)
それにもかかわらず、青山さんはラジオの中で、「自分はキリスト教の洗礼を受ける資格はないと思っている」とも言っています。それはキリスト教の幾つかの教義が自分とは相いれないと感じているからだとのことでした。では、キリストの復活というキリスト教信仰の中核的なことを100パーセント信じていながら、キリスト者となることを否定させているキリスト教の教義とは何でしょうか。青山さんはラジオ番組の中で、その理由を3つ挙げておられました。
まず第一に青山さんは、キリスト教の神に限らず、アラーやゾロアスター教の神様、もしくは「天」と呼ばれている存在全般を肯定しており、自分は多神教的であるから、一神教であるキリスト教の洗礼を受ける資格はないとおっしゃっていました。
しかし、青山さんはご自身のことを多神教的であると言ってますが、実際には青山さんが言及されたキリスト教、イスラム教は言うに及ばず、ゾロアスター教すらも、一般に「世界最古の一神教」といわれています(ウィキペディア参照)。
おそらく青山さんとしては、特定の宗教の呼称にこだわらずに、少し広い意味で神様や天と呼ばれている存在を肯定しているのだと思います(使徒17:23参照)。そして、お話を聞いているとこの点に関しては、ご自身がキリスト教とならない決定的な理由ではないようです。一神教と多神教については、神の存在証明(7)多神教の起源を参照していただければと思います。
もう一つの理由として青山さんは、キリストが処女降誕したのではなく、普通の人のようにマリヤとヨセフの子として誕生したのだと考えているとおっしゃっていました。このことに関しては、青山さんだけでなくクリスチャンと呼ばれる人でも、処女降誕を理性的に理解し難いと感じている方々は多くいらっしゃると思います。
でも実は、キリストの処女降誕というのは、単にキリストを神格化するために後代の人たちが付け加えたエピソードではなく、創世記の最初から神によって啓示(暗示)されていることであり(創世記3:15)、聖書神学的にも重要な意味を持っています。しかし、普通の感覚の持ち主が、生物学的、常識的に起こり得ない処女降誕に疑問を持つのは当然のことです。
ところで、話を聞いているとこの点に関しても、青山さんがキリスト教とならない決定的な理由ではないようです(個人的には、青山さんはゴルゴタの丘で、理屈抜きに生物学的にあり得ないキリストの復活を確信されたということですので、処女降誕に関しても同様のことが起こる可能性はあると思います)。
では、青山さんがキリストの復活を信じ、彼の生き方に共感しながらも、キリスト教に相いれないものを感じている最大の理由は何かというと、それはキリスト教の教理にあるとのことでした。青山さんは「キリスト教の根幹は、人の造られた目的が、神の栄光を現すためであるというものであるが、これはとても西洋的であり、自分とは相いれない」とおっしゃっていました。「キリスト教徒の方が聞いたら問題発言かもしれないけれど」という断りを入れられた上での言葉でした。
これは、ウエストミンスター小教理問答書の一番最初に出てくる内容です。確認してみましょう。
Q. 人のおもな目的は、何ですか。
A. 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
確かにこの教えは、キリスト教の代表的な教理問答(カテキズム)の一番最初に出てくるものであり、今まで多くのクリスチャンが何の違和感もなく、いやむしろ感銘さえ覚えながら受け入れてきた教えです。しかし、青山さんは日本人として、この教えに相いれないものを感じられているわけです。
この感覚の「乖離(かいり)」はどこにあるのでしょうか。このことについて皆様と一緒に考えていきたいと思いますが、長くなってしまいますので、今日は問題提起までとさせていただきます。結論を先に言えば、この乖離を埋めることは可能であると考えています。次回、本格的にこの教理について書かせていただきます。
21世紀の神学(3)青山繁晴氏が相いれないと感じる教理について 山崎純二
2018年8月17日18時23分 コラムニスト : 山崎純二
詳しくは下を参照
青山繁晴氏が、キリストの復活を100パーセント確信していること、それにもかかわらずキリスト教とならないのは、キリスト教の幾つかの教理がご自身の信条と合わないからであるとおっしゃっていたことを、前回まで紹介しました。その中でも一番の理由は、人の造られた目的が、神の栄光を現すためであるというキリスト教の根幹的な教えに相いれないものを感じるためだとのことでした。
■ 教理の概要
これは、ウエストミンスター小教理問答書の一番最初に出てくる内容です。もう一度、確認しておきます。
Q. 人のおもな目的は、何ですか。
A. 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
まず前提として、青山さんは、この教えがキリスト教の根幹であるとおっしゃられましたが、果たしてそうなのかという点を考えてみなければなりません。この教えがうたわれているウエストミンスター小教理問答についての概要は以下の通りです。
ウェストミンスター小教理問答は、1640年代にイングランドとスコットランドの神学者によって書かれた小教理問答である。ウェストミンスター会議は、この教理問答と、ウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答を作成した。これらの3文書は、プロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされている。(ウィキペディアより引用)
この教理は、1640年に作成されたものだということは、裏を返せば、それ以前には存在しなかったものということになります。またこの教理は、イギリス国教会のため作成された教理ですから、ローマ・カトリックや正教会においては表現が異なるでしょうし、プロテスタント教会の中でも、すべての教会が批准しているわけではありません。
■ 聖書と教理
では、キリスト教は教会ごとにばらばらのことを教えるのかと言われるとそうではなく、どの教会も共通して大切にしている正典(カノン)があります。それが聖書です。ですから基本的には、聖書さえあれば、教理を作らなくてもよいのですが、ご存じのように聖書は分厚く、初めて教会に来る人が、すぐに読破してその教えを理解するのが難しいために、また人々が曲解してしまうことを避けるために、神学者たちが聖書の教えの中核的な部分を要約し、人々に理解しやすいように簡潔に明文化したのが教理なのです。ですから教理を習えば、多くの人はキリスト教の大筋を理解できるので、非常に有用なわけです。しかし同時に、教理には弱点もあります。
まず第一に、教理はそれを作った神学者たちの理解度や霊性の域を出ることができません。彼らが体験し、理解した聖書を明文化するので、それがどれほど優れた神学者であるとしても、そこにはおのずと限界があります。時代の風潮や言語学上の新しい発見が聖書理解に影響を与えることもありますので、時代とともに教理は変容する可能性があります。例えばつい先日、本紙において「死刑に全面反対 教皇、『カトリック教会のカテキズム』の改訂を承認」というニュースが掲載されていました。教理「カテキズム」は改訂され得るのです。
例えて言うと、聖書は無限に湧く井戸や泉の源泉のようなものであり、教理とはそれを「ろ過」し、飲みやすく浄化されたコップの水のようなものです。コップの水から飲む方が飲みやすく便利な半面、大切なミネラルが失われてしまったり、長い時間とともに変容していく可能性があるということです。
誤解をしていただきたくないのですが、1640年以前にはこの教理は存在しなかったと書きましたが、それは聖書にない教えが人為的に作られたという意味ではありません。神学者たちが教理を作るときには、聖書を基に作ります。一行一行にびっしりと参照聖句が明記されていますので、基本的には正しいわけです。しかしそれでも、誤謬(ごびゅう)がないわけではなく、一つ一つの教えの優先順位や関連性、どれが中心的な教えかについては、教会ごと、神学者ごとに見解の相違があり得るということです。こういう特性を理解した上で、聖書と教理の両方を学んでいくことが大切になってきます。
■ 神中心
またこの教理の一番最初の問いが、「人のおもな目的は、何ですか」というように、「人」から始まっている点にも注意を払うべきです。実は聖書の重要な教えは、モーセの十戒にしても、主の祈りにしても、キリストが一番大切だとした教え「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエル)」にしても、人に対するものではなく、神様ご自身に対することから始まります。
モーセの十戒 :あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20:3)
主の祈り :天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6:9)
一番大切な教え :イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け(シェマー・イスラエル)。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』」(マルコ12:29、30、申命記6:4、5)
キリスト教の重要な教えは、人に対するものではなく、すべて例外なく神に対するものから始まります。そして、その次に人に対するものへと続きます。
次にはこれです。「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12:31)
■ 愛の教え
そして聖書が教える神とは、愛なるお方であり(1ヨハネ4:8)、無条件で一方的に、親が子を愛するように私たちを愛しているというのが聖書の根幹的なメッセージなのです。青山さんは、キリスト教の根幹的な教えが「人の造られた目的が、神の栄光を現すためである」と言われますが、私は幼い頃から教会に通い、多くの教会のメッセージを聞いてきましたが、圧倒的に「愛」のメッセージが多く語られています。
これは私個人の私的な感覚ではありません。これまたタイミング良く、つい先日本紙において「聖書検索サイト「バイブル・ゲートウェイ」が25周年 検索単語と人気聖句トップ10を発表」というニュースが配信されていました。この「バイブル・ゲートウェイ」というのは、世界中の約70言語で、200種類以上の訳の聖書を提供しているインターネットサイトで、閲覧数はこの四半世紀で140億を超えているそうです。つまり世界中のクリスチャンが興味を持ち、共感している聖書の検索単語と人気聖句がビックデータによって初めて明らかになったのです。
検索語の1位は:love(愛)であり、2位:peace(平和・平安)3位:faith(信仰)4位:hope(希望)5位:joy(喜び)・・・と続きます。そして人気聖句の1位は:ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というものでした。そして2位以下にも1度は聞いたことのある有名な聖句がエントリーしています。
しかし検索語、聖句のどちらにも、「栄光」とか「人の造られた目的が、神の栄光を現すためである」というような内容を示唆するものはランクインしていません。もちろん人気ランキングで教理が決められるわけではありませんが、キリスト教会において実質的に「愛」のメッセージが中心的なものとして語られていることは間違いありません。
以上の点を踏まえて、あえてこの教理の理解を助けるために改訂するとしたら、こうなります。
Q. 神とは何ですか。
A. 神は愛です。
Q. 神が人を造った目的は、何ですか。
A. 人を愛するためです。
Q. 人のおもな目的は、何ですか。
A. 神の愛を受け、神を愛し、また同様に隣人を愛することです。
そして、このこと(神を愛し、また同様に隣人を愛すること)が、神の栄光を現すことと同義なのです。
「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」という教理は、聖書的なものであり、多くのキリスト者が共感を覚えている教えであることは間違いありません。しかし、この教理だけが一人歩きしてしまうと、敏感な方はそこに相いれないものを感じてしまうのです。
次回、また別の角度から、最終的な結論を書かせていただきます。そしてできれば、青山さんが感じていらっしゃる違和感を解消できればと思います。そして、それが同時に読者の皆様の聖書理解や教理理解の一助にもなることを期待します。
21世紀の神学(4)青山繁晴氏へ一番伝えたかったこと 山崎純二
2018年8月31日09時17分 コラムニスト : 山崎純二
詳しくは下を参照
私たちは、青山さんがエルサレムに行き、キリストの復活というキリスト教信仰の中心的な部分を100パーセント確信したこと、しかし「人の造られた目的が、神の栄光をあらわすためである」というキリスト教の教えに相いれないものを感じているということを確認してきました。そして、前回は、この「教理」の概要と、教理というもの自体の役割や限界について書かせていただきました。
今回は、私が一番伝えたかったこととして、なぜ多くの熱心なクリスチャンが受け入れているこの教理について青山さんが違和感を感じるのかについて書かせていただき、この感覚の乖離(かいり)を埋めることができればと思います。なぜこのことが大切かといえば、これは青山さんだけでなく、他の多くの日本人も同様のことを感じるであろうからです。青山さんは、この教理が欧米的なものであり、日本人として相いれないものを感じるとおっしゃっていました。なぜそう感じたのでしょうか。
■「父の心」と「兄弟の心」
私が最近強く感じていることがあります。それは聖書を教えるときに、「父の心」で教えるのか、「兄弟の心」で教えるのかということです。
例えば、既に良い職場に就職している兄が、まだ学生である弟に、「お前はお父さんを喜ばせるために、勉強を頑張り、いい仕事に就き、家計を助けなければいけないよ」と言う場面を想定してみてください。これを聞いた弟はどう思うでしょうか?
そうだ、お兄さんの言う通りだと素直に思う子もいるでしょうが、兄の言葉がプレッシャーとなり、勉強ができないとお父さんに拒絶されるという強迫観念を持ってしまう可能性もあります。
しかし父は、本当にそれを願っているでしょうか。実は父は、勉強ができてもできなくても、良い仕事に就けても就けなくても「お前たちの存在自体が私の喜びだよ」と思っているかもしれません。また子どもたちが、良い成績を修めたり、良い職場に就くことを喜ぶとしても、それは家計が助かるからではなく、子どもたちの将来の安泰や幸せを願うからでしょう。
■ 使徒パウロ
話を元に戻しますと、「人の造られた目的が、神の栄光をあらわすためである」という言葉は、子どもに対して、「あなたは我が家紋の栄誉のために頑張らなければいけません。そのためにあなたは生まれて来たのです」と言っているようなものです。人によっては「神様は皆からあがめられるために人を造ったのか」と思うかもしれませんし、現代風に言うと、「いいね」をたくさん集めたくて、神が人を造ったのかと考えるかもしれません。ではこの教理は、聖書のどの箇所を基に作られたのでしょうか?
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)
このコリント書は、使徒パウロによって書かれたのですが、パウロという人物は、かつて多くのキリスト教徒を迫害し、投獄し、死にまでも至らしめた人です(使徒22:4)。しかしあることをきっかけに、彼は青山さん同様にキリストの復活を確信し、神の愛と恵みを体験し、キリスト教を世界中に広めるのに最も大きな役割を担うようになります。
パウロは、自分の大きな過ちが赦(ゆる)されたこと、また神の大きな恵みとあわれみを受けたことを誰よりも自覚していたので、この神の愛に応えたいという気持ちが非常に強かったのです(c.f. ローマ1:14、9:2)。だからこそ彼は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするべきだという結論に至り、他の人にもそれを勧めたのです。
つまり彼は先輩のクリスチャン(兄)として、彼に続く信徒たち(弟)へ、神(父)に対する態度の在り方を示したのです。そしてこのようなことは、パウロ以降、今の時代に至るまで、先に信じたクリスチャンから新しく信じる人たちへ、牧師から信徒たちへと連綿と続いていくことになります。
通常、教会においては、神に熱心な人が献身し、神学校へ通い指導者となります。そして、そういう人は違和感なく、「人が造られた目的は神の栄光のためである」という教理に心から同意し、それを他の人々に伝えていきます。問題は、それを聞く人たちの中に、プレッシャーや脅迫概念、もしくは違和感を感じる人たちが出てくるということです。
■ 太陽と月
少し整理しなければなりませんが、まず言えることは、神は太陽のようにご自身の栄光ですべてを照らされる方であり、何か栄光が不足しているような方ではありません。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)
月は自ら光を発することができず、太陽の光を反射することで輝きますが、太陽は他から温められる必要がなく、自ら熱と光を発して、それによって地のすべての生命を生かしています。同様に、神ご自身は最初から栄光に満ちた方であるので、ご自身の栄光の不足を補うために人を造られたのではありません。
ですから私たちが神の栄光を現すというのは、私たちが神の栄誉のために何かをして、神に栄光を与えるということではなく、逆に私たちが月のように神の栄光にあずからせていただくということです。このことを自覚していた、もう一人の有名な使徒であるペテロは、自分のことを「主の栄光にあずからせていただく者である」と紹介しています。
そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。(1ペテロ5:1)
■ おわりに
繰り返しになりますが、父の心と兄弟の心の間には大きなギャップがあります。では父の心は何かといえば、子どもたちが何を成したかではなく、その存在そのものを愛し喜ぶというものです。
ですから、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわすこと」という教理を伝えるときには、必ず先輩や兄の心ではなく、父の心を汲んでそれを伝えなければなりません。間違っても、兄弟の心を持って「自分も神様の栄光のために頑張っているんだから、お前たちも頑張らないと、父なる神様が悲しまれるぞ(もしくは拒絶されるぞ)」というふうに伝えてはいけないのです。しかし、熱心な方ほど、知らず知らずのうちに、このようなニュアンスで伝えてしまいがちです。
使徒パウロも、そのようなつもりでコリント書を書いたのではないのです。先ほどの箇所で彼は、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と前置きし、ですから「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と言っています。
「代価を払って買い取られた」とは、言うまでもなく、神が人類を愛して、愛する御子を遣わしてくださったこと、キリストが私たちに対する愛のゆえに自身の命を犠牲にして、私たちを罪から贖(あがな)ってくださったことを意味します。そして、この神の愛を深く知った(体験した)者たちは、強いられてでも嫌々でもなく、自ら進んで神を愛し、人を愛したいと思うようになります。そして、そのことこそが、神の栄光にあずかることになるのです。
いつか青山さんがこの文章を読んでくれることを期待して、今回のシリーズを閉じたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
0コメント