まず「僕の意見」
ホリエモンさんに対する評価がまた変わった。
とても素晴らしいことを言っておられる。
ホリエモンさんの
新しい著書の
「東京なんとか計画」!?って本には
腹が立ったが
この文章はとてもいい内容ですね。
毎日、ネットサーフィンでいろいろな勉強をしていらっしゃるらしい。
さすがだわ。
三橋貴明さんと議論しても全く負けてないしね。
いいところがあることにハッキリと気づいた。
もう少し彼の言うことに耳を傾ける必要性を実感しました。
終わり。
「マネー現代」様よりシェア、掲載。
ありがとうございます。感謝です。
実業家・SNS media & consulting株式会社ファウンダー
堀江 貴文
TAKAFUMI HORIE
1972年福岡県生まれ。実業家。SNS media & consulting株式会社ファウンダー。元ライブドア代表取締役社長CEO。スマホアプリのプロデュースや、国内初となる民間の宇宙ロケット開発に取り組むなど、多岐にわたって活躍中。有料メールマガジン「堀江貴文のブログでは言えない話」は1万数千人の読者を持つ。また会員制コミュニケーションサロン「堀江貴文イノベーション大学校」も盛況で、優秀な人材を輩出し続けている。著書に『ゼロ』『本音で生きる』『多動力』『自分のことだけ考える』『これからを稼ごう』など、ベストセラー多数。最新刊は『遊ぶが勝ち! 他人の時間を生きるな、熱狂して“いま”を生きろ』。
2018.11.20
堀江貴文さんが語る「みんな『お金』のことを勘違いしていないか?」
民間ロケットエンジンの開発から「マンガHONZ」「WAGYUMAFIA」と多彩な活躍を続ける堀江貴文さん。「お金」とは何か? 「人間の本質」とは? じっくり語っていただいた“特別授業”を『マンガでわかるお金の教科書 インベスターZ[ビジネス書版]vol.1』(2016年刊)から公開する。
「お金が好きか?」という問いはおかしい
メルマガや著作などの発信活動で、だいぶ変わってきたとは思うのだが、いまだに“堀江貴文は「金の亡者」「お金が大好き」”というイメージを持たれている。なぜだろう? お金を大好きだと思ったことは、一度もないのに……。
以前、講演イベントでこんなことがあった。
お客さんとの質疑応答の際に、「自分はお金のためには仕事をしていない」という経営者の男性にくってかかられた。「おまえは、どうしてそんなにお金が好きなんだ!?」と。せっかく質問してくれたのだから、きちんと答えたいのだが、いくら考えても質問の意味がわからない。
お金が好きとは、どういうことだ? 私はこう答えた。
「自分にとってお金は、爪切りと同じです。爪が伸びたら使う道具。必要なときに、必要なことをしてくれる道具に過ぎません。僕からすると、『どうして爪切りが好きなんだ?』と質問しているように聞こえます。答えようがありませんよね。あなたは爪切りのこと好きですか? と聞かれたら、どうしますか?」
そして「本当にお金が好きで、お金にとらわれているのは、あなたのほうではないのですか?」とつけ加えました。すると男性はバツが悪そうに、黙ってしまった。
いろんな著書で言っていることだが、お金はただの道具だ。それ以上でも以下でもない。ただし、道具としては万能過ぎるのかもしれない。だから誤解が蔓延っているのだろう。
お金の本当の本質は「信用」だ。 お金は、信用を数値化したものにすぎない。
物を手に入れる、人に貸す、ビジネスを進めるなど、必要な求めに応じてくれる信用を、国家が数値で保証している。流通しやすいよう一応、紙幣や硬貨としては存在するが、ただの紙であり、ニッケルや亜鉛に過ぎない。オンライン上の数値だけで、その役割は問題なく果たせる。
信用がお金の本質。
結論はそれに尽きるが、財布や金庫にある紙幣や硬貨が、本質を見誤らせている。紙幣がどれだけ束になっていても、その物体に紙束という以外の価値はない。けれどほとんどの人は、財布に紙幣がたくさんある状態を、強く望んでいる。
紙幣をありがたがるのは、新興宗教の教祖の発行したお札を、ありがたがっている信者とまったく同じ。大事なのは教祖の説く教えのはずなのに、お札があれば幸せになれると勘違いしているバカと何も変わらないのだ。
一方で、信者にとって信用が、お札にあるというなら、文句は言えない。お札に平気で何百万円も払ったりするのも、御利益という信用が、その代価なのだ。
たとえば会社の社長が1000万円で掛け軸の絵を買ったとすると、社員からは「なんであんなものに1000万円も払うんだ?」という声があがる。それは社員が掛け軸を信用していない、1000万円の価値を見出していないからだ。
人は自分の信用を基準にして、物の値段を決めている。紙幣や貨幣、つまりお金は、その数値の代理的な役割を果たしたものでしかない。
だから好きかどうか、という問い自体がおかしい。形のない、曖昧な概念の信用に対して、好きも嫌いもないだろう。 私が爪切りに対して「爪をきれいに切ってくれる」、それ以外の感情を何ひとつ持っていないことと同じだ。
そういった基本的な概念は、簿記や会計を学べばすぐわかることなのだけど、ほとんどの人は教わる機会も、教わろうという気もない。残念なことだ。
信用を生みだすのにハッタリは有効
ビットコインの出現でお金の概念が変わった、と言われる。けれど、私は別にそう思わない。ビットコインは中央銀行がなくても自律的に動く、バーチャルなお金のシステム。仕組みそのものは革新的であったかもしれないけれど、ネット社会では遅かれ早かれ出現しただろうし、お金の本質は変わっていないと思う。
お金とは信用のひとつの表現形態に過ぎない。逆に言うと、お金をたくさん扱っている人は、信用とは何であるかを理解している。最たる例は、借金を抱える人だ。
「自分にはビジネスで多額の借金があります」と言われると、世間ではネガティブなイメージにとらえられるが、私は逆に高く評価する。彼自身に、借金の金額分の信用があったから、お金を借りることができたのだ。
反対に、起業志望者のなかで借金を一切せず、せっせと自己資金を貯めている人がいるけれど、何をしてるんだろう? と思う。信用されていないから借金できないだけじゃないのか。あるいはプライドが邪魔して、お金を貸してくださいと頭を下げられないのか。
10の信用があれば100のお金を集めることができるが、100のお金があっても10の信用は得られない。すべてのビジネスの成功者は、このことを理解している。
しかし注意しなければいけないのが、詐欺師だ。詐欺師は、信用を巧みに捏造する。捏造だろうと何だろうと信用が得られれば、お金を動かすことはそれほど難しくない。
何をもって本当の信用か、詐欺なのか、はっきりした境目は存在しない。実は詐欺師なのに信用のプレゼンがうまいから大金持ちになっている人は、ごまんといる。
逆に、きちんと信用に足るビジネスをしているのに、周りが「あいつは詐欺師だ!」と言いだすと、途端に詐欺師としか見られなくなってしまう例もある。私なんかは、そう言われたほうだろう。
詐欺師の信用は所詮ニセモノなので、そのうち見破られるだろう。詐欺師に見られてしまった人は、信用が本物ならば、理解のある人が必ず評価してくれる。
本物の信用は、「お金(+時間) を自分自身の経験のために、どう使うか」「周囲の信用をいかに得ていくか」を真剣に考え、実践していくことで、生みだしていける。
シンプルに言うなら、楽しむことだ。楽しんでいると自然に人は集まってくるし、面白い知識や経験値、人間関係が蓄積されていく。「この人にならお金をかけてもいい」とか「一緒に苦労しよう」と思われる、パーソナルな価値が信用につながっていくのだ。
世の中を見渡すと、「いくら貯めるか?」「どれだけお金を増やすか?」「何をして稼ぐか?」といったことばかり考えて、「どう信用を生みだすか?」とは、考えない人が多すぎる。
お金が欲しいなら、まず信用だ。
大金の動く投資やビジネスで求められるのは、信用、それに尽きる。ビジネスは、信用を得ればOKだ。そこに多少のハッタリを加えると、さらに効果を発揮する。「やった者勝ち」は、信用を得るときにも使える技なのだ。
練習するより本番に挑め!
私が見る限り、世の中は「やらない」やつばかりだ。考えているだけで、何にも行動を起こさない。
頭の中でビジネスプランを思い描くのは、みんな好きだと思う。しかし、そのプランを現実に移そうと実際に動きだす人は少ない。不思議なことだ。頭の中のプランを形にできるのは、本人しかいないはずなのに。
たとえば、よく「起業準備中です」などと言う人がいる。何を準備しているんだよ! と言いたい。資金を調達したり、経営に必要な知識を学んだり、そういうことが準備らしいのだけど、いつ準備は満たされるんだ? そして準備が満たされるラインを決めるのは誰なんだ?
準備中だなんて、起業に尻込みしている不安の言い訳だ。自分で納得のいく準備ができたら走りだす。そんなものは起業ではない。
とにかくまず、走りだして、足りないものは走りながら、集めていったらいい。練習を積み重ねる必要はない。とにかく実践あるのみ。どんなに練習しようと、走りだしたあとの実体験に勝るスキルはないと思う。
私は2015年の夏、コペンハーゲンでアイアンマンレースに出場した。スイム3.8キロ、バイク180キロ、ラン42.195キロ、合計約226キロの過酷なレースだ。
スイムとランは日常的にトレーニングしているが、バイクの練習は一度もしなかった。周りからは「それじゃ絶対に完走できない」と言われまくった。だけど結果は、きっちり完走した。自転車が得意だと、自分で信じきっていたから、「絶対ムリ」と言われても、不安は感じなかった。途中つらいときはあったけど、リタイアしようとは思わなかった。
「絶対ムリ」派は、「レースの前にバイクで1000キロは練習しておかないとダメだ」と言う。どうして? 練習でそんなに長距離を走る意味がわからない。
とにかく本番。何かあったらそのとき対処する。これでアイアンマンレースも乗り切れる。私はそれを実証してみせた。
事前の準備を変に大事にする人は、プライドが高いだけじゃないだろうか。はじめから失敗したときの理由づけをしているというか。
ダメだったら、またチャレンジすればいい。その程度のことだ。
実際に動きだすのは1~2%の人だけ
チャレンジの選択肢は多く持っておこう。何でもやることは、最良の自己投資だ。
学生なら、部活を掛け持ちするのがいい。多くの学校は、生徒が入部する部活はひとつに限っている。悪しき慣習だ。そのひとつが才能を発揮できる部活とは限らない。要領のいいヤツは、部活をうまく掛け持ちしている。それでいいと思う。
サッカーと野球と水泳と簿記とパソコンを同時にやって、一番結果を出せるジャンルに最も多く時間を費やす。自己投資法としてはベストだ。気になったものは、何でもやってみよう!
以前、あるテレビ番組で高校生が「将来、農業をやりたいんです」と言っているのを見かけた。ビジネスとして農業に取り組もうという若者の姿勢は面白いが、将来とは、いつのことなんだろうか。いますぐやればいいのに。学校の名前で農地を借りて、まず野菜の栽培を始める。畑仕事は後輩に手伝わせてもいい。穫れた作物を無人販売所で売って、利益を出していけば、立派な学生ビジネスだ。
どうしてすぐやらないのか。農業は大変な仕事だから、受験勉強していい大学に入り、いったん就職して、充分に社会経験を積んでから手がけるべきという思いこみがある気がする。
そんなことはない。農業なんて、誰だってできる。
少し前の日本人は、農業学校にも行ってないのに、ほとんど農民として暮らしていたのだ。どんな野菜も、種を蒔いて水とか肥料をあげれば、まあまあ育つ。生育が難しい野菜はともかく、ジャガイモなんて切り分けて灰をまぶして、植えておけば勝手に増えていく。もちろん実際の農業にはそれなりの大変さがあるけれど、別に特別な人にしかできないものではない。
繰り返すが、理屈をこねて止まらず、動きだすこと。何でもやること。成功をつかむには、このふたつしかない。私はさまざまなメディアで発信してきたけれど、実際に行動に移したのはせいぜい1~2%ぐらいだろう。
まあ1~2%しかいないから、動きだした人が成功しやすいという面もあるだろう。けれど、逆に行動しない人が、そのぐらい低いパーセンテージになった世の中のほうが断然、面白いと思う。
親の世代の常識も協調性もいらない
具体的に、どう動きだせばいいかわからない、何をやればいいのかわからないという若い人の意見をよく聞く。思うに、みんな体験の絶対量が少なすぎるのではないか。
たとえば高校の文化祭で、模擬店をみんなでやって、商売の楽しさに気づいたり。部活で部長を任されたら、コーチングに興味を持ったり。普通の学校生活のなかにも、体験のチャンスはいくらでもある。なのに多くの学生は、体験しようとしない。
豊かな体験ができていたら、面白いことに向かって、身体が勝手に動きだすはずだ。
日本は、親が子どもの体験をコントロールしすぎているのかもしれない。子どものために体験を制御するのが、いいことだと決めこんでいる。
自分が高卒だから、子どもには大学に行かせたいとか、塾に行かせるために遊びを禁止したりとか。大学に行けば安泰というワケの分からない信仰が、親世代には根づいている。
親の常識とか、先生の常識は古い。どうしようもなく古い。20~30年前の常識なんて、現代にはまったく通用しない。 子どもの行動をコントロールするのが、正しい大人の役目だと思いこみ、子どもの本来の可能性を摘んでいる。そういうことが教育現場に理解されていないのは、大変な問題だ。
たとえば協調性。義務教育レベルでは、いまも大事にされている能力らしい。管理しやすい兵隊を養成するために導入された、戦前のカリキュラムの名残だ。
当時の学校教育の主な目的は、ジェネラリストの育成だった。個性的にも能力的にも周りから突出しない、組織の政治に波風を立てずに、仕事をやり過ごす方法を教えこんできた。
だが、現在は経済の中心がグローバルなネット社会に移行している。求められるのはジェネラリストではない。個性的で、多様な変化に適応でき、そして競争に勝てるスペシャリストだ。
上司の顔色を窺い、空気をうまく読んで、「出る杭」にならない人が、プラスの評価を受ける分野は消えつつある。「先にやる」「動きの速い」、そんな「競争に勝てる人」が、どの分野でも重用されているし、成果を上げている。
自己実現のためには素早く行動し、実践に臨み、スペシャリストの競争力を伸ばしていかないといけない。
協調性は不必要だとまでは言わないが、役立つ場面は公務員の世界の一部とか倒産寸前の会社とか、ひどく限られるだろう。それに協調性をいくら磨いたって、新しいものを生みだす感性は育たないと思う。
新しいものが次々に現れる現代社会のなかで、たくましく生き抜いていく力を子どもに身につけさせるのが学校のはずなのに。現代には通用しそうもない協調性を、まだ説いているのはおかしい。
協調性なんかいらない。スペシャリストの才能があればいいのだ。
知り合いの人気マンガ家は、周囲との協調性などまったくない。大手版元やテレビ局と真っ向から対立しても、自分のやりたいことをやりきる。義務教育ではだいぶ苦労されたタイプだろう。だけど才能があるから問題ない。才能があるから、敵が多いぶんだけ支持する人も多い。彼の支持者たちは、彼の人格を尊敬しているわけではない。才能を崇めている。協調性なんか、どうでもいいのだ。
才能のあるところで楽しく仕事する。それで充分だろう。
自分には才能がないから無理ですとか、選ばれた人しかできないです、などと言い返されることもあるが、わかっていない。
才能がないのではない。自分が何の才能を持っているのか、知らないだけだ。才能がないから協調性を大事にやっていくなんて、才能の探究をサボっている怠慢にしか聞こえない。
とにかく体験しよう。多くの体験でしか、才能を伸ばせる、ワクワクする楽しい何かは見つからない。言うなれば「ノリの良さ」だ。
プライドにとらわれて動きださず、才能を腐らせてしまうほど、バカバカしいことはない。ノリに任せて、あらゆる体験に臨んでほしい。
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